2009年01月04日

野辺地戦争(4)

なぜ、野辺地戦争を起こしたのか?

『戊辰役戦史』の著者大山柏は弘前藩の攻撃を

「これまで余りに慎重すぎ、作戦行動の発起が遅すぎた結果」

と推測しています。

前回の簡易年表を見ても、それはうなづけます。

実際、だいぶ以前に鎮撫総督府が攻撃命令を出していたのですから

進攻しなければならないと弘前藩が考えていたことは事実。

では、なぜ、

作戦行動の発起が遅すぎたのでしょう。

私は、昨日、一昨日と記事を書いているうちに

映画八甲田山」を思い出しました。

明治35年1月、吹雪の八甲田山。青森の連隊の雪中行軍の演習中に

遭難し、210名中199名が死亡した事件(八甲田雪中行軍遭難事件)

を題材に、一部の創作を加えた作品@ウィキペディア

野辺地戦争の35年後です。

映画の印象で、指揮権のないはずの偉い人の口出しによる指揮系統の

混乱で遭難した事を思い出したのです。

また、野辺地戦争で、本道隊と山道隊の間を進んだ一隊は、

夜間の山中で道に迷い、ついに戦いに参加することはなかった

遊軍が八甲田遭難とダブって感じたからかもしれません。

とにかく、揮系統の混乱

「慎重すぎ」ではなく「混乱」なのではと思います。

倒幕か勤皇かの藩論が確定したのが7月。そして、8月の頭に

成田求馬隊が庄内軍と戦い。

やっと確定して戦ったが、それは勤皇の忠誠を示すため。

津軽人の気質で、やってしまった出来事、確定した事に対して

偉い人の口出しによる指揮系統の混乱が生じていたのでは?

と考えました。

戦況情報として、津軽氏と密接な関係にあった近衛父子からの

倒幕有利との情報が征討軍への加担への決断だったと思われる

が、確信情報としては遅かった。中枢の近衛家以外の

情報は奥羽列藩同盟(奥羽25藩が加盟)からの情報だったのだから。

しかし、近衛家からの情報で今後の弘前藩の発展の為に下した決断も

関が原の戦いの時のような伊達藩のように戦況を見つめる独眼流ほど

ではなかった事になる。

なぜなら、野辺地戦争への着手の遅れがそれにあたる。

しかしながら、弘前藩の日本国に対する献身は、

度重なる蝦夷地警備、函館攻撃軍を青森港から送り出し

函館攻撃にも藩兵を送り、滞在費も弘前藩が工面したのにも

関わらず、戦後、弘前藩の功績はほとんど評価されなかった。

藩の後盾であった近衛家も明治政府の中で冷遇されていったことから

の要因もあるのだが、野辺地戦争を盛岡藩の降伏後のことで、

これらのことを戦闘ではなく「私闘」として恩賞の対象に

しなかった事もあるのではと考えるに至りました。

つまり、それらを見越した中で弘前藩は野辺地攻撃を

遅まきながら決行したのだし、遅かったから評価されなかった・・・


地方分権が叫ばれる昨今・・・・。

各藩で戦争が出来る世の中が良い事なのか、

津軽のように、いつでも冷遇されていても良いものなのか・・・


参照:戊辰戦争とうほく紀行/加藤貞仁



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posted by ハエポロ at 06:29| 青森 曇り| Comment(0) | 津軽の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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