脅威に直接触れたことから、洋式銃の導入が進んでいました。
慶応4年3月には、藩主津軽承昭(つぐあきら)の主導で軍制改革
を実施した。しかし、五月に沢副総督が秋田の大館まできた時には、
樹木を伐採して藩境の矢立峠をふさいだかと思うと、直後に副総督
を歓迎する使者を送るなど、藩論は定まらなかった。
藩論が勤皇に傾いたのは、西舘平馬が7月5日に弘前へ帰国して
からだった。西舘は、津軽氏と密接な関係にある前関白近衛忠ヒロ
忠房父子の「大事に尽くせ」という書状をたずさえていた。
弘前城内での重臣会議は激論となったが、最後には藩主承昭が
討伐軍への加担を決断した。弘前藩の列藩同盟離脱通告が、
白石城(宮城県)の奥羽越講義府に届いたのは14日。庄内藩が
弘前藩に援軍を求めたのは、わずかにタイミングを失っていた。
秋田へ出兵した弘前軍は、8月5日庄内軍と戦い、
成田求馬(もとめ)隊が隊長以下9人の戦死者を出した。
参戦当初、弘前藩はその本心を総督府に疑われていたといい、
成田は、勤皇の忠誠を示すために死地を求めたという。
しかし、その後に目立った活躍はなかった。
慶応4年(1868年)
7月16日 深浦で、庄内軍の和船を秋田藩士らが捕獲。
8月 5日 庄内軍と戦い(成田求馬隊)
8月17日 弘前藩に錦旗が下される。
8月23日 白虎隊が飯森山で自刃●
8月29日 鶴ヶ城から1000人が出撃(大敗北)●
9月 8日 明治と改元●
9月15日 福島藩降伏、会津若松での激戦で会津藩の幹部多数戦死●
9月22日 会津藩降伏 ●
9月23日 野辺地戦争
●が津軽藩外の主な出来事で、成田が勤皇の忠誠を示すために戦った
以降は、ほぼ何も行動を起こしていなかった。
実をいうと「野辺地戦争」はだいぶ以前に鎮撫総督府が攻撃命令
を出していたという。
上記簡易年表を見てもそれは伺え、
当時の戦局からは無意味な戦闘であったように見える。
明日に続く・・・
参照:戊辰戦争とうほく紀行/加藤貞仁
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タグ:野辺地戦争 戊辰戦争とうほく紀行














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