2009年01月03日

野辺地戦争(3)

弘前藩は寛政5年(1793年)以来、たび重なる蝦夷地警備でロシアの

脅威に直接触れたことから、洋式銃の導入が進んでいました。

慶応4年3月には、藩主津軽承昭(つぐあきら)の主導で軍制改革

を実施した。しかし、五月に沢副総督が秋田の大館まできた時には、

樹木を伐採して藩境の矢立峠をふさいだかと思うと、直後に副総督

を歓迎する使者を送るなど、藩論は定まらなかった。

 藩論が勤皇に傾いたのは、西舘平馬が7月5日に弘前へ帰国して

からだった。西舘は、津軽氏と密接な関係にある前関白近衛忠ヒロ

忠房父子の「大事に尽くせ」という書状をたずさえていた。

弘前城内での重臣会議は激論となったが、最後には藩主承昭が

討伐軍への加担を決断した。弘前藩の列藩同盟離脱通告が、

白石城(宮城県)の奥羽越講義府に届いたのは14日。庄内藩が

弘前藩に援軍を求めたのは、わずかにタイミングを失っていた。


 秋田へ出兵した弘前軍は、8月5日庄内軍と戦い、

成田求馬(もとめ)隊が隊長以下9人の戦死者を出した。

参戦当初、弘前藩はその本心を総督府に疑われていたといい、

成田は、勤皇の忠誠を示すために死地を求めたという。

しかし、その後に目立った活躍はなかった。


慶応4年(1868年)

7月16日 深浦で、庄内軍の和船を秋田藩士らが捕獲。

8月 5日 庄内軍と戦い(成田求馬隊)

8月17日 弘前藩に錦旗が下される。

8月23日 白虎隊が飯森山で自刃●

8月29日 鶴ヶ城から1000人が出撃(大敗北)●

9月 8日 明治と改元●

9月15日 福島藩降伏、会津若松での激戦で会津藩の幹部多数戦死●

9月22日 会津藩降伏 ●

9月23日 野辺地戦争

●が津軽藩外の主な出来事で、成田が勤皇の忠誠を示すために戦った

以降は、ほぼ何も行動を起こしていなかった。

実をいうと「野辺地戦争」はだいぶ以前に鎮撫総督府が攻撃命令

を出していたという。

上記簡易年表を見てもそれは伺え、

当時の戦局からは無意味な戦闘であったように見える。

明日に続く・・・



参照:戊辰戦争とうほく紀行/加藤貞仁


今年もヨロシクお願いします。
  ↓ クリックをお願いします。


m(_ _)m アリガトォ〜★
にほんブログ村 地域生活(街) 東日本ブログへ



posted by ハエポロ at 07:29| 青森 晴れ| Comment(0) | 津軽の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]